No.1563 電波を求める金魚たちよ

あまり見かけない人だった。

会社からの帰り、いつものように地下鉄に乗っていると、
出入り口のドアのそばに若い女性が立っていた。

黒のパンツスーツに、某ブランドメーカーのバッグ。
キャリアウーマンっぽい風貌で、スタイルも悪くない。
ただ、彼女はなぜか車窓の外を流れる暗闇を見つめながら
ずっとイライラした表情を浮かべていた。

「なにがそんなに面白くないんだろう?」

僕はしばらく不思議に思っていたが、
駅に停車するたびに慌てて携帯電話を開く彼女の姿を見て、
ようやくその理由を察した。

「電波」だ。
彼女は今、電波がほしいのだ。

地下鉄が駅と駅の間を走っている時は、
たいていどの携帯電話も電波が入らず通信が途切れる。
彼女はそれにイラついていた。
まるで、親の死に目に会えるかどうかの瀬戸際のように、険しい表情で。

それから数分後。

地下鉄が目的の駅に到着した瞬間、
長い間酸素の届かない深海に潜っていたダイバーのように
彼女は慌ててホームへと下りた。

そして、他の乗客が地上の改札へ階段をのぼる流れに逆行するように、
駅のホームにあるベンチに座り、携帯電話で誰かと話し始めた。

僕は階段をのぼりながら、
その様子を背中で感じていた。

電車も出発し、誰もいなくなったホームに
彼女の笑い声だけが響く。
なぜだろう。胸が痛くなった。

携帯電話は便利だ。
いろんなシーンで人間の生活を広げてくれる。
でも、あまりに依存しすぎると、
人間と携帯電話、主役と脇役が逆転してしまう。

電波の入る場所でしか生きられない。
それはまるで、閉じこめられた水槽の中で
何かを求めて口を開き続ける金魚のように哀れだ。