No.322  恋愛は“消去法”では語れない

恋愛は消去法では語れない。
一人を特別にして、他を除外する。
2者択一のコミュニケ-ションに、
いったい何の意味があるんだろうか。
 
よく昔、そんなことで悩んだりした。
 
一度に複数の人を好きになったり、
複数の人から一度に好意を寄せられたり。
なぜかたま~に、
「答えのない答え」を迫られている気になったりする。
 
僕の中では、今もまだ模範回答は生まれていない。
たぶん一生、正解には巡り合えないと思う。
 
誰かに「特別な人」ができるのは当然のことで、
それはまた素晴らしいことでもある。
でも、「たった一人を愛すこと」を美とする根拠は、
一体どこにあるんだろうか。
 
例えば昔、こんなドラマがあった。
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男と女が二人いた。
男と女には、
それぞれ“恋人”と呼ばれる人がいたけど、
二人は互いを愛してしまった。
 
男の友人は、「どっちかにしろ」と男を罵った。
女の友人は、「不誠実だ」と女を責めた。
 
悩み苦しむ、男と女。
 
男は2つの恋の重さを天秤ではかってみた。
女は2つの恋を消去法にかけてみた。
 
恋とは「情」か、「ときめき」か。
それとも「病」か、「本能」か。
考えれば考えるほど、苦しさは増していった。
 
数日後。
気がつけば二人は、別々の場所で泣いていた。
答えなどでなかったくせに、
答えが出たふりをしたばかりに。
 
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そもそも考えてみれば、
なぜ男と女は涙を流さなくてはならなかったのだろう。
二人は何も悪いことはしていない。
恋人に出逢ったあとに、
同じくらい素敵な人に出逢っただけの話。
 
このドラマを観て、男と女より
その恋人の気持ちを憂う人がいる。
それはそれで、素晴らしい意見だと思うけど、
僕はそれに両手をあげて賛成はしない。
 
男と女が愛し合ってしまったことを
恋人への「裏切り」というなら、それは違うだろう。
 
気持ちは所有できない。
なぜなら所有物ではないから。
 
大切な宝石を盗んだ泥棒を罵るような言い方で、
男と女をけなすのは違うと思う。
 
男の恋人が、男を「信じていた」とする。
次の瞬間、男に新しい別の気持ちが生まれた。
しかしそれは、決して裏切りではない。
もともと所有などできないはずの男の気持ちを、
恋人が自分一人で所有しようとしたができなかった。
ただ、それだけの行為ではないか。
 
どうも僕は、
「気持ちは一つであるべき」なんていう理屈がよく分からない。
自分ともう一人、という定員が決まっているなんて。
 
目の前に2つのおいしそうなリンゴがある。
誰かに「1つしか食べちゃダメ」と言われた。
右目を閉じたら、右のリンゴがなくなった。
でも現実には、リンゴはなくなってなんかいない。
心にふたをして、見えなくしただけ。
目の前には、確かにおいしそうなリンゴが2個ある。
そいつの片方に目を背けて、無理に1個にする必要があるんだろうか。
 
本当に自分が
片方を「おいしそう」、
もう片方を「どうでもいい」と思っているのなら、
目を閉じなくても
自然と1つのリンゴしか目に入らないはずだ。
 
話は変わるけど、
僕がこの「おはなし」を送っている人の数、現在25人。
僕は心の目を開いて、
そこに見えてくる人全員にこのメールを送っている。
そこに「選択」という文字はない。
 
自分以外にもう一人だけ、
そんな定員が決まっているなら、
25人を同時に愛している僕は死刑だろう。
笑ってしまうほど、気持ちの多い僕を
みなさんは死刑にします?
 
心に素直になれば、なるようになるさ。
恋人という「カタチ」は、幻だと僕は思っている。
真実は、自分の胸の中にあるじゃない。
 
ふ~。いつもは必ず5分で書くおはなしが、
今日はついつい熱くなって15分もかかってしまった。
 
長くなったけど、今日のポイントを。
 
人間は所有することができない気持ちを、
所有しようとする生き物。
恋とは所有の始まりであり、
ジェラシーとは所有の失敗からくる憤りである。