No.1381〜1384 息子誕生までの完全ドキュメント 〜9時間30分、その間、産院で何が起こったか〜


●今日のおはなし No.1381●

7月26日の夕方、
朝から産気づいたような気配があった嫁から
携帯にメールが来た。


>産院に電話したら、とりあえず来てくださいとの
>ことだったので、今から用意して行って来ます


あんなに胸がドキドキしたのは何年ぶりだろう。

「わかった。すぐ帰る」とメールを返信して、
高鳴る鼓動を隠しながら、同僚に事情を告げて会社を出た。

長く続いていた雨がやみ、
夏の日射しが復活したその日はとても暑く、
ダッシュで自宅に帰った時には、もう汗がダラダラだった。



 「はぁ、はぁ…、ただいまぁ」



慌てて帰った僕を見て、意外にも
嫁はなぜか落ち着いて笑っていた。



   「ホンマにすぐ帰ってきてんな」



 「だって、オマエ、」



   「大丈夫やって。とりあえず診察に行くだけやから」



午前中の僕なら、「あ、そう。まだなの?」と言って
横になって休憩でもしていただろう。

でも、その時の僕は違った。
根拠はないけど、何かが迫っている予感がしたのだ。
“男の勘”というやつである。



 「いや、たしかに、まだお産が始まったかどうかは
  分からんけど、始まるかもしれんワケやろ?
  とりあえず、はよ行くで。用意しぃ」



嫁の入院グッズカバンを持って、
急いで産院に向かおうとする僕。
「おーおー、カバンも持っていくの?」と笑う嫁。

「まぁ、まだ大丈夫やと思いますけど、
なんかあったら電話くださいね(笑)」と半笑いで
見送ってくれたお義母さんを家に残し、
僕は嫁を車に乗せて産院に向かった。



産院に着いたのは5分後。
ひとまずカバンは車に置き、二人で受付に行くと
嫁はすぐさま診察室へと連行された。

待っていても落ち着かないので、
嫁が診察を受けている間、
玄関そばにある灰皿の前で一服。

頬を流れ落ちる、汗。
どこからか絶え間なく聞こえてくる、蝉の鳴き声。

頭上を見れば、
昨日までのうっとうしい天気が嘘のように、
雲一つない空を夕焼けが赤く赤く染めている。

夏。待ちに待った夏。
その瞬間、なんとなく予感がしたんだ。
もう一つ、待っていたものがやって来たような。



   「どうやら破水してたみたい。
    即入院することになったわ」



そう嫁から聞いたのは、
タバコを吸い終わった後、すぐのことだった。

ついさっきまでは余裕をかましていたのに、
急に緊張した表情になる嫁。



     「ご主人さん、入院の用意はあります?
      じゃあ、すぐに上の部屋まで持ってきてください。
      はい、奥さんはこっちね!」



産院の人にそう言われるがまま、
2階へと連れて行かれる嫁を横目に、
僕は心の中で「よし!」と気合いを入れながら、
表に停めてある車までカバンを取りに走った。

夕焼けで赤く染まっていた空は、
東からだんだんと闇へと変わり、
長い夜の始まりを告げようとしていた。

             (明日へつづく)

 

●今日のおはなし No.1382●

(昨日の続き)

車に積んであったカバンをかつぎ、
産院の中に戻ると、嫁の姿は無かった。



 「あのぉ、すみません、うちの嫁は…」



     「あぁ、旦那さん?
      あちらの陣痛室にいらっしゃいますよ」



陣痛室。
初めて聞く名前なのでどんな部屋か想像もつかなかったが、
なんとなく「音楽室」や「視聴覚室」とは違う、たいそうな響き。

入ってみると、
リクライニング式のベッドの上に嫁が寝ていた。
いつのまにか、入院着に着替えさせられて。

嫁は、あまりの急展開にしばらく半信半疑な表情をしていたが、
やがて、何かを理解したようにゆっくり話し始めた。



   「入院カバン、持ってきて良かったね」



 「だから言うたやろ? 早めに診てもらえ、って」



   「でも、まだ全然大丈夫やねんけど。
    どうなるんやろ?」



 「オレに聞かれても知らんがな。たぶん…」



と、戸惑いながら二人で話していたその時、
仕切ってあった白いカーテンを開けて
ゴツい腕をした助産婦さんが入ってきた。



     「はぁぃ、どぅもー。」



何頭もマウンテンゴリラを産んできたようなデカい体。
オスorメスの性別さえ判断しにくい、褐色の顔面。

出産のために雇われた傭兵のような
どっしりとした有無を言わせぬオーラが、
僕たち出産未経験夫婦の不安を一蹴した。



     「えーっと、とりあえず、旦那さんは奥さんに
      何か飲み物を買ってきてあげてください!
      あ、アルコールはダメよ。それは終わってからね♪
      そうそう、食べるものも。
      奥さんが戦に備えられえるように、ね!」



 「わっ、わかりました」



     「あと、奥さん!」



   「はい!」



     「がんばりましょうね!」



   「はっ、はい。よろしくお願いします」



その後、助産婦さんは
部屋の使い方について一言二言言い残すと、
生徒のように素直に返事をする僕たちを見ながら、
ニヤリと笑って一旦部屋から消えた。

数分後、お義母さんが到着したのと入れ替えに
僕はコンビニまで飲み物と夕食を買いに行くことに。

再び部屋に戻ると、
少しだけ嫁の表情が変わっていた。



 「ただいま。どうよ?」



   「いや、大丈夫。少しおなかが張るぐらい。
    私もぼちぼち食べるから、先食べて」



ベッドに横たわる嫁の隣で、
先に弁当を食べるお義母さんと僕。

産院で味わうディナーは初めてだったから、
みんなが真剣に授業を受けている最中に
早弁をしているような、落ち着かない感じがした。

しばらくすると、嫁も起きあがって軽めの夕食をとり、
3人が食べ終わった頃には、
いつのまにか20時をまわろうとしていた。



   「なんかベッドに寝てるのが変な感じやわ。
    夕方までは家でのんびりテレビ観てたのに」



 「(笑)ほんまやなぁ」



と、3人でなごやかに談笑していたその時。
助産婦さんの重い足音とともに、
再びカーテンが開いた。



     「はい、準備完了やね。20時以降は
      旦那さん以外の面会はできないことになってるので、
      お母さんはご自宅で待機してください」



一瞬、「え?」と耳を疑った。

だって、出産って特別なことだから、
当然、肉親の立ち会いは例外だと思ってたから。

お義母さんは、何度も助産婦さんに
「ダメなんですか?」と尋ねたんだけど、
結局、



     「すみません。ダメです!」



という迫力に圧倒され、
産院を後にすることに…。

お義母さんが娘の出産を何より楽しみにしていたのを
知っていた僕は、胸が痛かった。
たぶん、嫁もそうだったと思う。

でも、助産婦さんに文句を言おうとは思わなかった。

なぜなら、毅然として説明していた助産婦さんも、
一瞬だけ「ごめんなさい…」という表情を見せたから。
仕方ない。夜間の不審な侵入者から
たくさんの新生児を守る義務がある、産院の決まりなんだから。



 「お義母さん、また携帯で連絡します」



    「すみませんねぇ、じゃあ、あとはよろしくお願いします」



そう言い残して、お義母さんは
助産婦さんに誘導されるように部屋から姿を消した。

さっきまでのなごやかムードが嘘のように、
急に静かになった陣痛室。

嫁のおなかが収縮する感覚が早まってきたのは、
その後すぐのことだった。



 「大丈夫か?」



   「大丈夫やけど…、少し波が大きくなってきた。
    ちょっと、ここらへん(=腰)をさすって…」



玄関も閉まり、
人の声もしなくなった静かな産院の中で、
嫁と僕、2人だけの戦いが始まった。

             (明日へ続く)

 

●今日のおはなし No.1383●

(昨日の続き)

2人だけになった陣痛室で嫁の腰をさすっていたら、
携帯電話にメールが来た。
会社のみんなから。

メールには、
「がんばってください!」と書いた紙を持って、
みんなで集まって撮った写真が添付されていて、ちょっとじーんとした。



 「ほら見てみ、みんな応援してくれてはるで」



   「ほんまやな(笑)。がんばるわ」



男性には耳慣れない話かもしれないが、
出産する時は子宮口が10cmぐらい開いて子どもが出てくる。

うちの嫁はこの時点ですでに3cmぐらい開いているのに
まだまだ余裕があったので、21時の時点で
「ひょっとしたら今日中に出てくるんとちゃうん?」と
少し楽観視し始めていた。

助産婦さんが、
「痛かったら声出してもエエんよ?
あんまり静かやから心配するわ」と言うほど、
嫁は大丈夫だったのだ。

ところが、
子宮口が7cmぐらいまで開いた頃からスピードが落ち、
22時、23時と時が経つにつれ、
だんだんと嫁の表情が見たこともないぐらい
苦しそうなものに変わっていった。

1、2分ごとに痛みが押し寄せては、
「ヒッ、ヒー、フー…」と呼吸を荒くする嫁。

やがて、ベッドに寝てるのも辛くなって
ぐったりと僕に寄りかかるようになり、
僕はただただ、腰をさすっては
体を支えることを繰り返すだけだった。

そんなことを何十回、何時間繰り返しただろう。

だんだんと体力が消耗してきた頃には、
時計の針は2時をまわっていた。


「…、大丈夫か?」と聞いてみても、
言葉を返す余裕すらなくした嫁。

ただ同じことを繰り返し続けることに対して、
僕も心身共に疲弊し始めていた。

2時30分を少しまわった頃だったろうか。
ぐったりとした僕たち2人の所に、
助産婦さんがやってきたのは。



     「どうですか? 苦しい?
      じゃあ、もう一回診てみましょうか」



内診の間、いったん部屋を出て外でタバコを吸う。
夜空を見上げると、星がたくさん出ていた。

しばらくの間ぼーっと夜空を眺めてから
部屋に戻ろうとすると、途中で
別の若いスタッフさんにとめられた。



     「奥さん、もうちゃんと子宮口が開いたみたいですね。
      これから分娩室に移動しますから、
      少しそこのソファで待っていてください」



疲れていた頭が、一気に覚める気がした。

いよいよ、待ちに待った瞬間が
目の前に迫っているという事実。

僕は、消灯された後の真っ暗な部屋にあるソファに
深く体を沈め、これまでの10カ月間を思い出していた。



それから30分ぐらい待っただろうか。
さっきの若いスタッフさんが、僕を呼ぶ声がした。



     「はい、奥さんはもう分娩室に入られました。
      ご主人も今から入ってもらいますんで、
      この白い服と帽子をつけてこっちに来てください」



どうしようもなく、高鳴る胸。

言われたとおり、服と帽子を身につけ、
僕は女性スタッフの後につくように、
一歩一歩分娩室へと足を進めた。

             (明日へ続く)

 

●今日のおはなし No.1384●

(昨日のつづき)

「手術中」と書かれた赤いランプをくぐり、分娩室へ入ると、
産婦人科医の先生や助産婦さんたちが
分娩台に乗った嫁を囲んでいた。

そんな一生記憶に残るシーンに出くわしたら、
いつもの僕ならとてもテンションが上がるのだが、
おそらく深夜で疲れていたんだろう。

その時の僕には、
特別な光景さえ日常にしか見えず、
意外にも、ものすごく冷静にその様子を見守っていた。



     「はい奥さん! もう少しよ! がんばって!」



さっきまでの落ち着いた表情とは違い、
必死で嫁に呼び掛ける助産婦さん。

口を真一文字に結び、今まで見たこともないような、
赤く、苦しそうな顔でいきむ嫁。

しばらくすると、だんだんと子どもの頭頂部らしき
黒髪が見えてきたのがわかった。



     「奥さん、あと少し! あと少しがんばろ!」



助産婦さんの声にうなずき、
次にふんばるまでに呼吸を整える嫁。

とりみだすことなく、
「もう少しやで」と手を握る僕。

そう、その時の僕は落ち着きすぎていて、
目の前で起こっていることの重大さを感じていなかった。



   「ハァ、ハァ…、
    …の、飲み物がほしい…」



 「飲み物? はいはい、ちょっと待っててな。
  ストローが向こうにあるからとってくるわ」



     「ダメ! 旦那さんはココにいてください!」



若いスタッフさんに呼び止められてハッとした。

…、そうだ!
あと数秒で、新しい生命が誕生するんだ!
ストローをとりにいってる場合じゃない!

ようやく頭が正気に戻った時、
分娩室に助産婦さんの大きな声が響いた。



     「さぁ! 奥さん、もう少し!
      もう1回がんばろ! 行くよー、はぁい!!」



僕の手を痛いほど強く握り、
最後の力を振り絞っていきむ嫁。

そして、その瞬間はやってきた。




   …ッギャー! ギャー、ッギャー、…ッギャー!




     「はぁい、おめでとう!」



助産婦さんの手に抱かれた小さな物体。
あまりに初めての光景で、
最初はそれが人間だと実感できなかった。

でも、あんなに声をあげて泣いている。
手を、足を、あんなに動かしている…。
人間だ。産まれたんだ。

とっさに嫁の顔を見て、「産まれたで」と言ったら、
嫁は放心した顔で少し涙を浮かべた。

僕は産まれたての子どもを見て
すぐには泣けなかったけど、
嫁のその表情を見て、胸がじんと熱くなった。



     「はぁい、旦那さん、
      カメラ撮るなら今だけOKですよ」



体を拭いてもらった赤ん坊のそばに近づくと、
なんだかとても変な感じがした。
さっきまでいなかった生命が、数分後の今、存在している。

それがなぜかを頭の中で整理する余裕がなかった僕は、
「我が子なんだ。俺の子なんだ」と自分に言い聞かせるように、
何度も繰り返しシャッターを押した。



その後、嫁の治療のために、
いったん分娩室を出てソファ席へ。
さっきと同じソファに、同じように体を沈める。

やっぱり、この数分で何が起きたのか十分実感できなかったけど、
「産まれた、産まれたんやなぁ」と独りごとを言っているうちに、
ようやく少しずつ胸から温かいものがこみあげてきた。

しばらく余韻にひたって気持ちを落ち着かせた後、
携帯電話を手にとり、
自宅で待機してもらっていたお義母さんに連絡することに。

「3時過ぎだし寝てるかな」と思ったけど、
すぐに電話がつながった。



 「もしもし、お義母さんですか?
  こんな時間にすみません」



    「いいえ、で、産まれましたん?」



 「はい! さっき、えーと、
  3時25分頃、無事産まれました!」



    「そうですか! おめでとうございます。
     良かったですなぁ」



電話の向こうから聞こえてくる、
お義母さんのうれしそうな声。
それを聞いて、ようやく僕も喜びがこみあげてきた。

ずっとお待たせしたからね。
初孫おめでとう、お義母さん。



こうして、2006年7月27日、
我が家に長男が誕生した。

神様がちょっとしたサプライズをくれたのか、
息子が産まれたこの日は、
「お義母さんの誕生日」と同じ日だった。