No.1470 地下鉄で「電卓」を握りしめた男

先週、正月休み明けに
はじめて会社に向かおうとした朝のこと。

いつもどおり、地下鉄に乗っていると
面白いことに半分ぐらいの人がアクビをしていた。
そりゃそうだよな、休みボケで昼夜逆転していたのは
僕だけじゃないはずだ。思わずつられて僕も「ふぁぁ」とアクビ。

と、その時、
一人だけ違うオーラを出している人がいるのに気づいた。

年齢は30代後半ぐらい。
どこにでもいそうなサラリーマン風の男性だったんだけど、
彼からオーラを感じたのには理由があった。

なぜなら彼は、カバンも持たず、コートも羽織らず、
なぜか左手に「電卓」だけを持って立っていたのだ。

電卓!?と驚いて、目をこすりながら何度も確認したんだけど、
やっぱりそれはどこからどうみてもカシオの電卓で、
彼はその画面をじっと見つめて車両の中に立っていた。

この前にも話したかもしれないけど、
僕が愛用している長堀鶴見緑地線というのは、
社内吊り広告がないのでお互いのマンウォッチングが定番となっている。
電卓を持った不思議な彼を周りの乗客が見逃すわけもなく、
彼はまるでステージに上がったエルビス・プレスリーのように視線を集めていた。

彼がじっと電卓の画面を見つめ続けて
1駅ぐらい過ぎた頃だっただろうか、
突然、思い出したかのように彼の右手が動いた。
そして、ゆっくりとボタンを押し始めたのである。

   9 6 0 0

画面に大きく表示された4桁の数字。
「おいおい9600って、9600? 何の数字だ?
 今年は…2007年。違うなぁ」
周囲の乗客からそんな声にならないどよめきが聞こえた気がした。

それからまた1駅、「9600」と表示された電卓の画面を
じっと見つめ続ける彼。
乗客の誰もが、次の彼の動きを息を飲んで見守っていた。
「足すのか? それとも…引くのか?
 引くとしたら…何を引くんだ?
 というか、9600って何なんだ!?」

新春明けの通勤電車とは思えないほどの緊張が
車両内に充満したその時、再び動き出した彼の右手。
そして、彼の右人差し指が、ゆっくりと大きなボタンに触れた。

 
    AC

おッ、「オールクリア」かよ!!
画面真っ白やないか!

電車の揺れに見せかけて、
乗客の誰もがズッこけたことは言うまでもない。
彼はその手で、謎の計算式を白紙に戻すことを選択したのだ。

オールクリアを押した途端、
なぜか急に晴れやかな表情になった彼。

その瞬間、穏やかな陽光が彼を照らし、
「♪栄光に向かって走るー あの列車に乗っていこうー」
というザ・ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」が
感動のエンディングソングのように流れた気がした。

彼は大阪城近くの駅で電車を降りていったので、
今もまだ、「9600」の意味は謎のまま。
ただ、僕なりにこう思うのである。
彼は去年、「9600」にまつわる何かの思い出があり、
きっと、それをようやく“リセット”したのだと。

人それぞれ、いろんなことが始まる2007年、
心新たにスタートするきっかけを僕にくれたのは、
まぎれもない彼でした。