No.299  忘れられないタクシー

学生の時、月3万円の寮に住んでいた僕は
タクシ-というものに乗る機会なんてほとんどなかった。

そんな僕にある日、
はじめて自分のお金で
タクシ-に乗る機会がやってきた。

近鉄線に乗ってPLの花火に行ってたら、
帰りの電車が河内長野で無くなってしまって、
河内長野でタクシ-を拾った。

 「どちらまで?」

    「堺のHあたりまでお願いします」

タクシ-が動きだす。

ドキドキ。
実はこのドキドキには2つの意味があって、
一つは知らない運ちゃんと二人きりのドキドキ。

もう一つは、
財布の中に2500円しか入ってなかったドキドキ。

 「お兄さん、学生さんですか?」

運ちゃんが話しかけてきた。

    「はい。貧乏ながら、なんとか一人で暮らしてます」

僕は運ちゃんが話しかけてくれたのが嬉しくて、
めいいっぱいの笑顔でそう答えた。

 「実は、私にもお兄さんくらいの息子がいましてねぇ…」

そこから運ちゃんは、
息子があまり口をきいてくれないこと、
いつまで経っても自立しようとしないことなどを
僕に話してくれた。

    「そうなんですか。
     僕が一人暮らししてるのは、
     早く親父に追いつきたかったからなんですよ。」

何故あんな言葉ふが出てきたのかは分からない。
知らずしらずのうちに、
僕は親父とは何か、男とはどう生きるべきかを
熱く語りはじめていた。

 「へぇ~、感心ですねぇ。
 若いのにしっかりと考えを持っているんですね」

    「いえ、そんなことありませんよ。
     きっと息子さんも
     色んなことを考えてらっしゃると思いますよ」

そう言って二人で笑った時、
タクシ-のメ-タ-が2480円に変わった。

    「すみません…」

 「どうしたんですか?」

    「僕 今日2500円しか持ってないんで
     ここで降ろしてもらえますか?」

 「でもHまではあと3kmほどありますよ」

    「いえ、いいんです。
     今晩は涼しくて気持ちよさそうですし。
     若者は若者らしく、歩いて帰ります(笑)。」

次の交差点の手前で、車が止まった。

    「ありがとうございました」

そう言って2500円を運ちゃんに手渡すと、
110円のおつりが返ってきた。

    「え?2480円ですよね?」

 「それで缶コ-ヒ-でも買って下さい。
  ありがとうございました。」

そう言ってタクシ-は、走り去っていった。

遠くなっていくタクシ-を見つめながら、
しばし僕はぼんやりとしていた。

夏の夜、一人で歩く3kmの帰り道。

途中に自動販売機がいくつかあったけど、
僕はその110円を握りしめたまま
笑顔で家まで歩き続けた。