No.4589 もう、昭和じゃないから

僕らは自分で自分の考えや
価値観を築いてきたようで、
実は周りに結構影響されてきている。

きっと、無意識に操作されていることも。
いわゆる「すり込み」というやつだ。

コイツがなかなかやっかいで、
幼少期から行われたすり込みは
心の根底に残り続けるから、
大人になってから
「ん?なんか違うかも」と気づいたとしても
ちょいちょい見えない自分が邪魔をしてくる。

わかりやすい例をあげれば、
「根性」や「我慢」。

昭和の時代は、たしかにこれがすべてだった。
これさえあればすべてが実現できると教えられたし、
「逃げないこと」や「我慢強く耐えること」は
どこか日本人の美徳のように教えられた。

少なくとも僕らより前の世代は、
「逃げることは悪、我慢強いことが良」なのである。

どれだけ夫が酒飲みでも耐える。
雇ってくれた会社で最後まで勤め上げる。

厳しい練習に耐えるから強くなれる。
どれだけ嫌な人がいても、
こちらが合わせるのがマナー。

苦難や苦労は自己成長のチャンス、
それを乗り越えたところに桃源郷がある、などなど。
社会全体からそんな感じの教育を受けてきたんだよね。

ただ、僕らはもう気づいてしまったのだ。
それらが一理はあったとしても、
すべてではないことに。

我慢は時として身を滅ぼす原因にもなり、
逃げ方を知らなければTHE ENDになることにさえ
もうとっくに気づいてしまった。

それでもすり込まれた意識は離れず、
心のどこかから
「これは甘えだ。
 みんな頑張ってるから、もう少しがんばろう」
なんて囁きが聞こえてしまう。

いや~、潜在意識は怖いね。

すり込まれた僕らは、
もうこの自問自答から一生逃れられない。
本当に我慢が必要か否かは、
自分で判断しなくちゃいけないよね。

逆に、若い子たちには
「我慢が足りない」とか
絶対に言っちゃいけないと思う。

父親たるもの、息子にはどうしても
気合いや根性を求めてしまうんだけど、
強要はしないでおこう。言わないでおこう。

ん? 待てよ?
「思っても言わない」ということも
もしかして一種の我慢じゃないのか?

僕が我慢すれば僕が苦しくなるし、
僕が我慢しなければ息子が苦しくなる。

うーん、いつの時代も
世代間ギャップが生じてしまう理由は
こういうことなんだな。

どうやったって、
必ず誰かが我慢することになるんだ。
「…ふぅ、それなら自分が我慢するか」と思ってしまう、
昭和生まれのオッサンであった。